ヒロシマSHADOWS

インディアンの勇者デニス・バンクス率いるセクレット・ランはヒロシマに向けて走りはじめている。11年前にオクラホマから参加したときの喜びを思い出し、何度も今回のランに参加しようと迷った。北海道からヒロシマに向けて走りぬ くことはすばらしい。デニスからいろんなことを教われるし、たくさんの友人もできるだろう。ただひとつ・・・それは“オレ以外の誰か”ができることだ。1995年8月6日被爆50周年のヒロシマで、“オレにしかできないこと”があるはずだ。そしてそれこそがアーティストの仕事なんだ。
8月15日から3連発個展の最後があるにもかかわらず、ヒロシマへ行く決心をした。
7月29日夜11時東京駅初大垣行き普通列車で出発。関西へ行くときはいつも用賀のインターチェンジからヒッチハイクすんだけど、今回は友だちが青春18切符とやらを1枚くれた。ラッキーかと思ったら超満員。乗車口しか空いてないんで床に寝ころんでいると、踏まれるわけっ飛ばされるわでインドの3等列車よりきびしかった。
今回のプロジェクトのパートナー広島出身の女性アーティスト、トクと京都で合流し、各駅停車でヒロシマへ向かった。
ピカドンという一瞬の閃光で焼き付いてしまった影の写真を見たことあるかい?人や橋の欄干やハンドルや草花など、あらゆる影たちが逃げ場をなくしてそこにとどまり続ける。
オレはトクの実家にお世話になりながら影について考え続けた。オレたちがついて2日後にトクのお父さんが入院した。
当時小学校の教師をしていた彼は原爆投下を広島湾の江田島から見た。階段を下りる途中の彼に向かって窓ガラスが吹き飛んできたという。
家族の安否を確かめるため翌日入市した。帰ってきてない妹を探しに出たものの広島の街は焼け野原。あちこちに黒こげの死体が転がり、背中からはがれた皮を地面 に引きずりながら人々は水を求めてさまよう。彼が道を聞こうと肩をたたくと、女学生は倒れた。もうすでに死んでいたのだ。彼は叫び出したい衝動を抑えて走った。妹が顔中を水膨れにして帰ってきていた。
終戦後、彼は5人の健康な子供に恵まれ、幸福に暮らした。原爆のことは何ひとつ子供たちには話さなかった。そして50年後、大腸と小腸の間に腫瘍が見つかった。それが原爆のせいかどうかは誰にもわからない。もっと被害のひどい人に申し訳ないと今まで差し控えていた被爆者手帳を50年目にしてはじめて申請した。8月に入ってから毎日、新聞でデニスたちの記事を探すが載ってない。よその国のヒロシマの、ナガサキの、平和のために汗だくになって走り続けているインディアンたちをマスコミは本気で取り上げないばかりか、あいも変わらずどうでもいい記事ばかりをタレ流す。いったい日本人が1990年12月29日に、ウーンデット・ニーで大量 虐殺されたスー族を悼んで祈りを捧げたのだろう?
8月4日にやっと中国新聞の片隅に小さな記事を見つけた。デニスたちは一切スローガンを掲げず、原発がある町に着くとスー族の歌と祈りを捧げる。それがすむとまたつぎの町に向かって走り出すという。オレはそのかっこよさに感動しちまって、心の中で何度もつぶやいた。
「ありがとう、ありがとう」
もちろんそれは日々の煩わしさにかまけている日本総国民を代表してなんかじゃない。完全にオレ個人、AKIRAたったひとりの「ありがとう」だ。8月5日デニスたちが原爆ドーム前広場に到着した。デニスは人なつっこい笑顔で3度目の再会を喜んでくれた。
オレとトクはいきづまっていた。当初予定していた作品がうまくいかなかったからだ。それはコンクリートブロックや板などにアート・エマルジョンという現像液を使って写 真を定着させるというものだった。オレたちが途方に暮れて文房具屋を出ようとすると、設計図などに使われる青焼き紙が目についた。ワラにもすがる気持ちでこのロールをつかんだ。
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さっそく家に帰って実験する。紙の上に手を置いて太陽にあてると、まわりが白くなり手の影が青く焼き付く。
「これだ!」
オレとトクは手を握り合って『アルプス一万尺』を踊った。
4日の昼頃、オレたちは原爆ドーム前の河原を散歩していた。エメラルド・グリーンの美しい川面 を見ていると、こめかみがしめつけられ軽いめまいがした。鼓膜の内側からザワザワと震え、網膜の後ろにぼんやりとした情景が浮かび上がる。
空をつかむ姿で焼けこげた者、死んだ乳飲み子に無理矢理乳を飲まそうとグイグイ乳房に押しつける母親、上腕をえぐられた女性は筋の間から骨がポッコリ顔を出している、こぼれた右目を手のひらにのせて眼孔からゼラチンの糸をひく男、焦げた背中はカラカラにひび割れわずかに背を丸めただけで新しい亀裂が痛みとともに走る。肉やカルシウムが焦げるいやな臭いと生臭い吐息が混ざりあい「水を下さい」と少年はうめいた。服はボロボロ裂け血と膿で肌にはりつき皮膚と見分けがつかない亡霊たちは、つぎつぎに川へ飛びこんでいく。
50年前、この大川は無数の死体であふれかえっていた。そして今でも川底をさらうとまだ白骨が出てくるという。
オレは川辺に降りて、水をすくった。あとから降りてくるトクに、ふざけて水をひっかけたときだ。干潮でで干上がった土手に黒々としたシミがついた。落ちていたスプライトの缶 に水を入れ、土手に絵を描いてみた。トクはそれを見てもう意味が分かったらしい。そう、ふたつ目のSHADOWSは100mにもおよぶとんでもない大作になるだろう。

1995年8月6日午前8時15分。
原爆投下時間にサイレンが鳴り響き、人々はいっせいに地に倒れた。これがヒロシマ、ナガサキの有名なセレモニー『DYINGダイイング』だ。オレたちはエノラゲイが投下目標とした相生橋の上でSHADOWS 1 『DYINGダイイング』をはじめた。青焼き紙に遮光シートをかぶせ、その間にもぐり込んでもらう。通 行人は『DYINGダイイング』をしたばかりなので、何の抵抗もなくやってくれる。遮光シートをはぎとると、ものの5秒で背景が白く感光していく。人がどくと同時に、青く残った影の部分を定着スプレーでカヴァーする。この定着液がアンモニアのすえたような強烈な臭いを放つ。サリン事件で異臭騒動に過敏になった機動隊がやってきた。透明なカヴァーで顔をおおい、ジュラルミンの盾やこん棒を持っている。
「その薬品は何だね?」
「定着液ですよ。ところでお兄さんもちょっとここへ寝てくれませんか?」
若い機動隊員は何も答えず、ぶ然とした顔で行ってしまった。あたりを見まわすと武装した機動隊だらけだ。戦後50周年の式典だけあって、世界中から何十万人の人がつめかけている。このクソ暑いのにヘルメットにタオルやサングラスをした左翼、装甲車のようなトラックで軍歌をかけまくる、グリーンピースから宗教団体までやってきてこのお祭りを盛り上げている。
オレは世界中からアーティストや大道芸人が集まって場所取り合戦とかあるのかな?と思ったらとんでもない。どうやら現代のアーティストたちはみんな“自己の内面 ”とやらに没頭するのに忙しいらしい。
相生橋の上でデニスと話していると、遠くから手漕ぎボートがやってきた。先頭に黒い服を着た喜納昌吉さんが花をまいている。デニスは子供のようにはしゃぎながら、手を振っている。昌吉さんたちは沖縄伝統の丸木舟サバニで黒潮に乗りながら、いろんな島をまわってきた。3ヶ月にもわたる危険な旅で、途中失神者も出たという。
昌吉さんが聞いてきた島の老人たちの証言はすさまじい。沖縄をはじめ戦場にさらされた島々では、“鬼畜米英”に殺される前に集団自決しろと教えられた。刀など持っていない農民たちは鍬で自分の子供たちを殴り殺し、包丁で妻の喉をかき切り、草刈り鎌で切腹したという。
さあ、引き潮のピーク11時だ。いよいよヒロシマSHADOWSのメインイヴェントがはじまる。
オレたちは原爆ドームの対岸の公園から、立入禁止のロープをまたいで階段を下りていく。オレは塩、トクは花を一度額にあてては、一段一段置いていく。ゆっくりと後ろ向きに降り立ったオレたちはそれらを川にまく。塩は浄化、花は祝福のシンボルだ。
中央の階段をはさんで二手に分かれ、清められた川の水で描きはじめる。乾燥した泥の上に、毛先の長いペンキ用のはけですりこむように描いていく。影たちは両手を上げ、したたり落ちた水が火傷した皮膚のようにぶら下がる。トクはもっと激しく踊るような人影だ。
対岸の原爆ドームからものすごい人がこっちを見てる。こんな何万人の観客たちの前でライヴ・ペインティングができるなんて最高だ。新聞社のカメラマンや興味を持った人々がやってくる。3人の女子高生がこわごわオレにこう聞いた。
「私たちにも描かせてもらえませんか?だって面白そうなんだもん」
こういう言葉が一番うれしい。オレは喜んでバケツと筆をわたした。
彼女たちはキャーキャー言いながら、楽しんでいる。オレたちが楽しそうに水遊びしてると思ってもいっこうにかまわない。むずしい思想なんかよりも創作する楽しさを伝える方がよっぽど大切なことなんだ。
トクはオレの倍くらいのペースでせまってくる。最後の影をがつながるように手を伸ばす。100人以上のSHADOWSが土手いっぱいにぶ様は壮観だ。なんだかみんなでいっせいにバンザイしてるようにも見えてくる。
降りしきる蝉時雨の中、慈悲深い太陽の光りにSHADOWSは消えていった。
「SHADOWS」東京展へ
翌年の「ピロシマ」展へ
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